村上ひとし物語〜仁〜すべてのものに慈しみをもって



村上ひとし物語 7


 大学を卒業し、東京の運輸会社に就職しました。会社では、タクシー部門の運行管理者としての業務と事故処理を主に担当していました。営業所の勤務は朝が早く、毎朝5時に起き、ほとんど誰も乗っていない5時56分発の電車に乗り、7時までに出勤していました。タクシーは労働集約型の産業であるため、様々なタイプの乗務員がいる中、お互いに信頼と理解を深め合うのは大変でした。また、事故処理でも、ヤクザまがいの相手がいたり、若かった私にとって対応上の難しさがありました。

 就職と同時に知らないうちに自民党員になっていました。もちろん自民党の活動をしていたわけではありませんが、会社、権力、政治が癒着をする世界や組合差別が許されて良いのか、いつも真剣に悩みながら仕事をしていたものです。

 25歳で結婚、学生時代から住んでいた三軒茶屋のアパートから京王線沿いの多摩永山のマンションに引越しをしました。学生時代、アルバイト先の会社に勤めていたのが妻です。貧乏学生だったので、彼女によくご飯を食べさせてもらいました。従順な北海道犬は餌の恩に報いるべく、九州出身の彼女と遂に結婚してしまったのです。今でも西郷隆盛さんの銅像を見ると、一緒にいる犬が自分のように思えてなりません。

 1989年12月29日の夕方、突然、姉さんから「母さん、もうだめだから、喪服を持って帰っておいで」と電話がありました。皮肉にも、翌日の30日には正月を母の元で過ごすための準備をしている最中で、航空券も予約していました。しかし、1時間でも早く帰るため、飛行機をキャンセル、タクシーに乗り、上野から夜行列車に飛び乗りました。夜行列車は正月を故郷で迎える帰省客でごった返し、年間を通じて最も混雑している時期でもあり、列車の通路に足の置き場も見つからないほどです。しかし、雑然とした車内でも、故郷へのお土産をたくさん買い込み、にこやかな顔ばかりです。

 そんな中、私1人だけ、母はまだ意識があるのか、せめて私が着くまでは生きていて欲しい。祈るような願いと母の想い出で溢れ出る涙が止まりませんでした。

 母の元に着いたのは、お通夜の始まる直前でした。私には何がなんだか理解できません。どうして母の通夜なのか。ただ、泣き崩れようとする自分を必死に支えるのが精一杯でした。「仁、お帰り。久しぶりだね」と今にも笑顔で話しかけてくれそうな、かわいい顔した母が棺にいました。享年55歳。

 母の他界により、長男の私は北海道に戻る決意をする事になります。

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