村上ひとし物語〜仁〜すべてのものに慈しみをもって



村上ひとし物語 8


 母が亡くなった後、北海道勤医協に就職することができました。勤医協は無差別・平等の医療を掲げる病院です。常に患者さんの立場にたち、いつでも・どこでも・だれもが必要な医療が受けられるよう全職員が支え合い力を尽くしていました。会社、権力、政治が癒着をし、組合差別があたりまえの以前の会社とは大違いです。世の中にこんな民主的な組織があることに感動しました。

 3年目で子供が生まれました。しかも双子の女の子です。これまでの生活が激変、たいへんな日々を送る事になります。妻は出産数ヶ月前から安静、2ヶ月間入院の上、帝王切開だったため、退院しても寝たきり状態。3、4日間は九州から妻のお母さんが来てくれましたが、その後は地獄の日々でした。子育ての中心戦力は私しかいません。夜通し45分交代で泣く双子の娘に、おむつ交換、ミルクを飲ませる、寝かしつけるまで抱っこして部屋中を熊のように歩く、合間に洗濯、哺乳瓶の洗浄、殺菌など自分が休まる時間も場所もありません。不思議と車に乗せると良く寝るので、夜中に増毛や留萌まで車を走らせたものです。

 子育てもたいへんでしたが、医療や介護をめぐる情勢も深刻になります。老人医療費など一貫した自己負担増が導入され、患者さんの受診抑制が進み、症状の悪化や手遅れになる悲惨な事例が増えます。病院の収入の源である診療報酬も大幅に引き下げが行われ、厳しい経営状況を強いられます。医師と看護師の不足により、医療供給体制が著しく困難になり、これまでの医療も成り立ちません。厳しい体制や環境の中、無差別・平等の医療の実践に力を尽くす医師や看護師は疲弊し次々と退職していきます。経営の困難と人的体制を維持するため、やむなくあらゆる職種で派遣、パート職員を大幅に導入せざるを得ませんでした。毎年、職員の賃金も下がります。まさに兵糧攻めです。医療・介護は、そのほとんどが政治で規定されます。現場での努力と同時に、人の命が大事にされ、福祉の心を持った政治の実現が求められていました。

 そんな時、日本共産党の札幌市議会議員である小川勝美さんの後を受け継ぐお話をいただきました。身に余る光栄です。しかし、悩みました。はたして自分が適任なのかという事や、勤医協での責任と役割、双子の娘も中学2年生、父親の介護、どの問題をとっても責任ある年齢と立場です。心が大きく揺れ動きます。

 43年間の自分の人生を振り返ってみました。仁(ひとし)という名前は、仁徳をそなえ慈しみぶかい人間になって欲しいとの両親のおもい。そして選挙の候補者になった場合も、覚え易く書き易い名前である事が命名の理由であります。

 東京から北海道に戻る決意をさせた母の死。母は死ぬ直前まで、雪の中、日本共産党のビラ配りをしていました。そしてそのビラは、危篤の母の元に駆けつける直前、東京の私のアパートに届けられたビラと同じものであり、当時の私には、母が最後の力を振り絞り「仁、後は頼んだよ」そう言いながら、日本共産党のビラを私に届けてくれたのだと思えてなりませんでした。父親はパーキンソン病で自立歩行が困難になりました。教育者として教え子を二度と戦場へ送らない決意で日本共産党の躍進に力を尽くしてきました。今、病魔に襲われ戦列を離れざるを得ない状況です。しかし、憲法と平和を守るたたかいは益々重要な局面を迎えています。子どもたちの将来のためにも、父親の志を受け継ぎ、今度は私が親として憲法と平和を守るために力を尽くさなければなりません。

 医療は病院に来て始めて施す事ができます。病院に来られない人の命を救うためには、人の命が大事にされる政治の実現がどうしても必要です。勤医協での経験からも、患者さんの切実な声、医療・介護労働者の現場の声を議会で代弁してくれるのは日本共産党だけでした。私が小川勝美さんの後を受け継ぐことは、まさに時代の要請であり、人生をかけるに値する大きな仕事であると思います。

 私は決心します。小川勝美さんが長年にわたり守り抜いてきた日本共産党の議席を今度は村上ひとしが必ず受け継ぎ、国の悪政から市民の暮らしと命を守る防波堤の役目を果たすことを。

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