村上ひとし物語〜仁〜すべてのものに慈しみをもって



村上ひとし物語 5


 砂川中学校から砂川南高校に入学しました。歌志内中学校からも何人か入学しており、懐かしい旧友達とも再会をすることができました。現在は生徒数の減少で砂川北高校と合併し、新しく砂川高校になっています。中学ではサッカー部でしたが、砂川南高校では難解なルールと男らしい肉弾戦に惹かれラグビー部に入りました。残念ですが、私が卒業後まもなくラグビー部は廃部になりました。

 学校から帰宅すると、夕食、ジャージの洗濯、風呂を済ませます。宿題が出たときには、少し寝てからしようと思うのですが、ほとんど朝まで寝ていました。毎朝「どうして起こしてくれなかったんだ!」と母を責めるのですが、寝たら起きるような私ではありませんでした。宿題は忘れるが、ジャージだけは毎日忘れず自分で洗濯をする。亡くなった母に唯一ほめられていた事です。

 毎日が泥だらけの厳しい練習でした。1年生の頃は、体中の節々が痛み、顔も擦り傷だらけ、耳も変形、歯も折れました。だんだん人相も悪くなり、みんなが楽しい昼休みも、痛みと体力温存のため、ほとんど机で寝ていました。姉さんが「ラグビー部は柄が悪いから入るのを止めたほうがいいよ」と言っていた訳がわかりました。

 受験では私大を目指しました。経済的な負担をかけるので親には申し訳ないと思いつつ、早い段階から3教科を絞り込みました。本来、3年生で学ぶ政治経済を2年生の時から勉強しました。短時間で高得点を稼げることができる科目だと判断したからです。部活で疲れきり、家では寝てばかりいるので、学校の授業時間にこっそりと受験勉強をしていました。先生ごめんなさい。こんな事、いまさら暴露しなければならないとは思いもしませんでした。許して下さい。でも、もう時効ですよね。

 法政大学法学部への入学が決まり、東京へ旅立つ時の記憶は今でも鮮明です。列車のドアが閉まり、両親の顔を見ていると、この瞬間から生活のすべてが変わるという旅立ちの決意、そして両親への感謝の気持ちで胸がいっぱいになり、急に涙が溢れ出し、止まらなくなりました。涙で揺れる両親がはじめて小さく弱く見えた瞬間です。列車には空席がありましたが、千歳空港駅まで涙が止まらず、顔をくしゃくしゃにしながら、でっかい図体で、ずっとデッキに立っていました。

 今想えば笑い話ですが、これが私にとって、大人になる貴重な巣立ちだったのだと思います。

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