村上ひとし物語〜仁〜すべてのものに慈しみをもって



村上ひとし物語 3


 その後、父親の転勤で小学校4年生からは、空知の歌志内市で暮らすことになりました。初めての転校です。新しい友達から、勉強、スポーツ、性格など自分の全てが試されているようで嫌なものでした。私は、柄にも無く「少し勉強しなきゃ」と一瞬の間だけ、予習、復習に生まれて始めて努力したのもこの時です。続けていれば・・・残念!

 歌志内市は、町全体がうなぎの寝床状に細長く、周囲を山に囲まれた炭鉱町です。昭和46年当時は、すでに石炭全盛期を過ぎ、採炭の縮小や閉山による人口減が著しい時代でした。その結果、全国の市の中でも一番人口が少なく、歌唱力の無い市が歌志内市であると言われていました。(歌シナイ市?) 【  部は、おやじギャグです。】

 また、倉本聡さんの「昨日悲し別」に出てくるロマン座のモデルになった映画館がある事で有名になり、一時期、本州からの観光客も訪れていました。

 私の家は、かもい岳国際スキー場のリフト乗り場の直ぐ下でした。ですから、どこへ行くにも急勾配の坂の上り下りの毎日でした。おかげさまで、日常生活の中で脚力や心肺機能が鍛えられたと思っています。冬休みは、朝からナイター終了まで毎日スキー三昧。小学校にもミニスキー持参で通ったものです。なにしろ、道東の標茶町ではスキーよりもスケートが主流であったため、スキーの経験が無い私は、遅れを取り戻すために必死で取り組みました。

 炭鉱町であったため、冬の暖房はルンペンストーブでした。秋は玄関横の炭庫へ石炭を搬入する作業。冬はルンペンストーブのあく捨てと石炭入れ、新聞紙を丸めて折り込む焚き付けの準備、除雪などが私の仕事になりました。どの仕事も生活上で重要な役割です。サボって遊びに出かけると、帰宅してから母親に叱られたものです。

 それにしても、炭鉱は生活が派手な家庭が多いと感じていました。炭鉱住宅の外観からは創造できないほど、立派な家具や最新の電気製品が家中に並び、子供心にも格差を感じていたものです。子供のスキーやウエア、自転車など毎年のように買い換えるのはあたりまえ。道具や格好でまねをするのは到底不可能でした。母は、そんな私の気持ちを見透かして、「人間中身で勝負、道具や格好はいつでも揃えられる。男なら細かい事を気にするな。」と繰り返し私に言っていました。しかし、なかなか納得できない小学生でした。

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